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'''定光寺'''(じょうこうじ)は、[[愛知県]][[瀬戸市]]定光寺町にある[[臨済宗]][[妙心寺]]派の[[寺院]]。山号は応夢山(おうむざん)。[[1336年]]に創建され、17世紀中頃、[[喝堂全用]]により再興され、[[尾張徳川家]]の庇護を受けた。寺域に隣接して尾張徳川家初代・[[徳川義直]]の廟所・[[#源敬公廟|源敬公廟]]と同家歴代の納骨堂・[[#崇徳廟|崇徳廟]]がある。
  
{{日本の寺院
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== 沿革 ==
|名称 = 定光寺
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[[建武 (日本)|建武]]3年(1336年)、[[覚源禅師]](平心處齊)が籐左衛門尉の案内で[[尾張国]]山田荘水野郷を訪れ、この地方の領主であった[[水野致国]]と美濃国小田の山内入道が開基檀越となり、臨済宗[[建長寺]]派の寺院として創建した。
|画像 = [[ファイル:Jōkōji hondō Seto.JPG|300px]]<br />本堂
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|所在地 = [[愛知県]][[瀬戸市]]定光寺町373
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'''定光寺'''(じょうこうじ)は、[[愛知県]][[瀬戸市]]定光寺町にある[[臨済宗妙心寺派]]の[[寺院]]。山号は応夢山(おうむざん)。[[本尊]]は延命地蔵願王菩薩(地蔵菩薩)。[[桜]]や[[紅葉]]の名所としても知られている。寺域に隣接して尾張徳川家初代[[徳川義直]]の廟所である源敬公廟があるが、尾張徳川家の菩提寺ではない。
+
[[慶安]]2年([[1649年]])、喝堂全用が妙心寺派寺院として再興した。慶安3年(1650年)に尾張徳川家初代・徳川義直が没した後、その翌年から3年間かけて、寺域に隣接する山林に廟墓「源敬公廟」が造営され、尾張徳川家の庇護を受けるようになった。
  
== 歴史 ==
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1930年頃、尾張徳川家第19代当主・[[徳川義親]]のとき、同家が名古屋や東京の寺院に造営していた墓所約170基を廃し、源敬公廟の隣の地下に鉄筋コンクリート造の納骨堂を造成して、火葬し直した280数体の遺骨をまとめて納骨した{{Sfn|中野|1977|p=71}}{{Sfn|徳川|2006|pp=82}}。墓所の整理は、{{Harvtxt|中野|1977|p=71}}によると1936年、{{Harvtxt|徳川|2006|p=82}}によると1953年頃に終えられた。
[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])、[[覚源禅師]](平心處齊)が籐左衛門尉の案内で[[尾張国]]山田荘水野郷を訪れ、この地方の領主であった[[水野致国]]と美濃国小田の山内入道が開基檀越となり、[[臨済宗]][[建長寺]]派の寺院として創建した。[[慶安]]2年([[1649年]])、[[喝堂全用]]が妙心寺派寺院として再興した。
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[[慶安]]3年([[1650年]])に[[尾張徳川家]]初代[[徳川義直]]が没すると、寺域に隣接する山林にその翌年から3年をかけて源敬公廟(徳川義直廟墓)が造営され、尾張徳川家の庇護を受けるようになった。
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== 建築物 ==
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=== 本堂 ===
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定光寺の本堂は、天文3年(1534年)に再建されたもので、定光寺に残る最も古い建物。国の指定有形文化財となっている。<ref>[http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2011012600094/ 瀬戸市TOP > 分野 > 市の文化財 > 定光寺 本堂 (国有形(建造物))] 2011年3月28日更新、2018年5月29日閲覧</ref>
  
尾張徳川家第19代当主・[[徳川義親]]のとき、同家が約300年間に造営した墓所約170基を廃し、徳川義直廟墓の隣の尾張徳川家所有地の地下に鉄筋コンクリート造の納骨堂を造成して、遺骨をまとめて納骨した{{Sfn|中野|1977|p=71}}。墓所の整理は1936年に完了{{Sfn|中野|1977|p=71}}。1976年に義親が没した後、義親の遺骨も同所に納骨された{{Sfn|中野|1977|pp=71,211}}。
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=== 直入橋 ===
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定光寺の参道入口の池にかかる直入橋(ちょくにゅうばし)は、[[尾張藩]]の第2代藩主・[[徳川光友]]が架設させた石橋で、承応2年(1653)に竣工したもの。江戸時代には、寺内の優れた景勝地の1つとされていた。瀬戸市の有形文化財に指定されている。<ref>[http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2011012500035/ 瀬戸市TOP > 分野 > 市の文化財 > 直入橋 (市有形(建造物))] 2011年3月28日更新、2018年5月29日閲覧</ref>
  
== 源敬公廟 ==
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=== 源敬公廟 ===
寺域に東接する、尾張徳川家初代[[徳川義直]]の廟所。源敬公(げんけいこう)は義直の諡号(しごう)。廟所正面に竜の門があり、その左右に築地塀が伸びる。塀で囲まれた内側に焼香殿と宝蔵、その先に唐門があり、唐門の奥に義直の墓標が立つ。義直の墓は慶安4年(1651年)、焼香殿などの周囲の建物は翌承応元年(1652年)に建立されたもので、参道途中にある獅子の門は元禄12年(1699年)の建立である。焼香殿、宝蔵などは禅宗様を基調とし、中国風の装飾を施している。建物6棟と墓1基が重要文化財に指定されている。
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源敬公廟(げんけいこうびょう)は、尾張徳川家初代・[[徳川義直]]の廟所。源敬公は義直の[[諡号]]。慶安3年(1650年)に義直が死去した後、遺命により定光寺の北東の隣接地に建立された。設計は中国からの渡来人・[[陳元贇]]により、日本では数少ない[[儒教式]]の配置となっている。<ref>{{Cite web|last= 瀬戸市 |year= 2011 |url= http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2011012600087/ |title= 瀬戸市TOP > 分野 > 市の文化財 > 源敬公(徳川義直)廟 (国有形(建造物))|date= 2011年3月28日更新|accessdate= 2018年5月29日閲覧}}</ref>
  
義直の墓に石垣をめぐらせたうちの1枚をはずすと、数百万両の軍用金が埋蔵してあるという伝説がある{{Sfn|中野|1977|p=108}}
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慶安4年(1651年)に墳墓と石標が造立され、翌承応元年(1652年)に焼香殿、宝蔵、門、築地塀などが完成した。唐門、焼香殿(祭文殿)、宝蔵(祭器蔵)、龍の門、築地塀および獅子の門と、源敬公墓(参道、殉死者墓9基、石柵4所を含む)は、国の[[重要文化財]]に指定されている。{{Sfn|瀬戸市|2011}}
  
== 文化財 ==
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{{Harvtxt|中野|1977|p=108}}によると、義直の墓に石垣をめぐらせたうちの1枚をはずすと、数百万両の軍用金が埋蔵してあるという伝説がある。
=== 重要文化財 ===
+
=== 崇徳廟 ===
* 本堂(仏殿) 附宮殿1基  - 通称無為殿、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、明応2年(1493年)建立
+
崇徳廟は、定光寺の隣接地にある、尾張徳川家の歴代の納骨堂。半地下構造で、広さは約20坪あり、内陣と外陣に分かれている。内陣には歴代当主とその夫人、外陣には夭逝した子供と絶家した分家、歴代当主の側室の遺骨が納められている。{{Sfn|徳川|2006|p=82}}
* 源敬公廟(6棟、1基)
+
**獅子の門
+
**竜の門
+
**築地塀
+
**焼香殿(祭文殿)
+
**宝蔵(祭器蔵)
+
**唐門
+
**源敬公墓 
+
**附:参道、殉死者墓9基、石柵4所
+
*太刀 銘助重
+
*太刀 銘守家
+
  
※源敬公廟と尾張徳川家納骨堂は定光寺でなく、個人(尾張徳川家)の所有。
+
「崇徳廟」の掲額は1991年の元旦に同家の第22代当主・[[徳川義崇]]が「崇」、同21代・[[徳川義宣|義宣]]が「徳」、同20代・[[徳川義知|義知]]が「廟」字を揮毫したもの{{Sfn|徳川|2006|p=105}}。1976年に歿した同19代・義親、1992年に歿した義知の遺骨も同所に納骨された{{Sfn|中野|1977|pp=71,211}}{{Sfn|徳川|2006|p=105}}。
  
=== 瀬戸市指定文化財 ===
+
== 什宝 ==
*祠堂帳<ref>{{Cite web |date=2011-03-28 |url=http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2010111001189/ |title=指定・登録文化財一覧 |publisher=瀬戸市 |accessdate=2013-05-27}}</ref>
+
[[本尊]]は延命地蔵願王菩薩(地蔵菩薩)。
  
=== その他 ===
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尾張藩の第3代藩主・[[徳川綱誠|綱誠]]が寄進した太刀(銘・助重、[[備前国]]吉岡一文字派)と、第9代藩主・[[徳川宗睦|宗睦]]が寄進した太刀(銘・守家、備前国畠山派)は、国の指定有形文化財となっている<ref>[http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2011012600063/ 瀬戸市TOP > 分野 > 市の文化財 > 太刀 銘助重 (国有形(工芸))] 2011年3月28日更新、2018年5月29日閲覧、[http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2011012600056/ 瀬戸市TOP > 分野 > 市の文化財 > 太刀 銘守家 (国有形(工芸))] 2011年3月28日更新、2018年5月29日閲覧</ref>。
* 木造地蔵菩薩坐像 - 本尊
+
 
 +
祠堂帳(1巻)は、瀬戸市の指定歴史資料となっている<ref>[http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2011012600063/ 瀬戸市TOP > 分野 > 市の文化財 > 指定・登録文化財一覧] 2017年3月1日更新、2018年5月29日閲覧、</ref>。
  
== ギャラリー ==
 
{{gallery
 
|File:Joukouji3.JPG|定光寺境内
 
|File:Joukouji8.JPG|
 
|File:Joukouji9.JPG|
 
|File:Joukouji10.JPG|
 
|File:Joukouji1.JPG|展望茶屋
 
|File:Joukouji11.JPG|展望台から名古屋方面を望む
 
|File:Joukouji4.JPG|源敬公廟 獅子の門(覆屋内)
 
|File:Joukouji5.JPG|源敬公廟 竜の門(覆屋内)
 
|File:Joukouji6.JPG|源敬公廟 焼香殿と宝蔵(覆屋内)
 
|File:Joukouji7.JPG|唐門と源敬公墓
 
|ファイル:Jōkōji sanmon Seto.JPG|参道と山門
 
}}
 
 
== 所在地 ==
 
== 所在地 ==
* 愛知県瀬戸市定光寺町373
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* 愛知県瀬戸市定光寺町373{{Sfn|瀬戸市|2011}}
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* 源敬公廟は同町373の1{{Sfn|瀬戸市|2011}}
  
== 交通アクセス ==
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== 付録 ==
* [[東海旅客鉄道|JR]][[中央本線]][[定光寺駅]]から徒歩約25分
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=== 関連文献 ===
*[[瀬戸市コミュニティバス]]定光寺公園バス停下車
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* [[尾張名所図会]] 第3巻 応夢山定光寺』1844年(天保15年)
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* 太田正弘(編)『定光寺誌』定光寺、1985年、{{JPNO|85048095}}
  
== 近辺の名所施設 ==
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=== 脚注 ===
* [[東海自然歩道]]
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{{Reflist|20em}}
* 定光寺公園
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* 玉野川渓谷(定光寺渓)
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* 瀬戸市野外活動センター(キャンプ場、フィールドアスレチックなど)
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== 脚注 ==
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=== 参考文献 ===
{{Reflist}}
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*{{Aya|徳川|year=2006}} 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
 
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* {{Cite book|和書|last= 中野 |year= 1977 |first= 雅夫 |title= 革命は芸術なり‐徳川義親の生涯 |publisher= 学芸書林 |id= {{JPNO|78013751}} |ref= harv }}
== 参考文献 ==
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* 太田正弘編『定光寺誌』(定光寺、1985年)
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* {{Cite book|和書|last= 中野 |year= 1977 |first= 雅夫 |title= 革命は芸術なり‐徳川義親の生涯 |publisher= 学芸書林 |id= {{全国書誌番号|78013751}} |ref= harv }}
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* [[尾張名所図会|『尾張名所図会』 第三巻 應夢山定光寺]]、1844年
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== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
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* [https://www.aichi-now.jp/spots/detail/66/ 愛知の公式観光ガイド AICHI NOW 岩屋堂・定光寺もみじまつり]
 
* [https://www.aichi-now.jp/spots/detail/66/ 愛知の公式観光ガイド AICHI NOW 岩屋堂・定光寺もみじまつり]
  
 
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2018年6月11日 (月) 21:12時点における最新版

ファイル:Jōkōji hondō Seto.JPG 座標:35 16 48.4 N 137 5 29.0 E 定光寺(じょうこうじ)は、愛知県瀬戸市定光寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は応夢山(おうむざん)。1336年に創建され、17世紀中頃、喝堂全用により再興され、尾張徳川家の庇護を受けた。寺域に隣接して尾張徳川家初代・徳川義直の廟所・源敬公廟と同家歴代の納骨堂・崇徳廟がある。

沿革[編集]

建武3年(1336年)、覚源禅師(平心處齊)が籐左衛門尉の案内で尾張国山田荘水野郷を訪れ、この地方の領主であった水野致国と美濃国小田の山内入道が開基檀越となり、臨済宗建長寺派の寺院として創建した。

慶安2年(1649年)、喝堂全用が妙心寺派寺院として再興した。慶安3年(1650年)に尾張徳川家初代・徳川義直が没した後、その翌年から3年間かけて、寺域に隣接する山林に廟墓「源敬公廟」が造営され、尾張徳川家の庇護を受けるようになった。

1930年頃、尾張徳川家第19代当主・徳川義親のとき、同家が名古屋や東京の寺院に造営していた墓所約170基を廃し、源敬公廟の隣の地下に鉄筋コンクリート造の納骨堂を造成して、火葬し直した280数体の遺骨をまとめて納骨した[1][2]。墓所の整理は、中野 (1977 71)によると1936年、徳川 (2006 82)によると1953年頃に終えられた。

建築物[編集]

本堂[編集]

定光寺の本堂は、天文3年(1534年)に再建されたもので、定光寺に残る最も古い建物。国の指定有形文化財となっている。[3]

直入橋[編集]

定光寺の参道入口の池にかかる直入橋(ちょくにゅうばし)は、尾張藩の第2代藩主・徳川光友が架設させた石橋で、承応2年(1653)に竣工したもの。江戸時代には、寺内の優れた景勝地の1つとされていた。瀬戸市の有形文化財に指定されている。[4]

源敬公廟[編集]

源敬公廟(げんけいこうびょう)は、尾張徳川家初代・徳川義直の廟所。源敬公は義直の諡号。慶安3年(1650年)に義直が死去した後、遺命により定光寺の北東の隣接地に建立された。設計は中国からの渡来人・陳元贇により、日本では数少ない儒教式の配置となっている。[5]

慶安4年(1651年)に墳墓と石標が造立され、翌承応元年(1652年)に焼香殿、宝蔵、門、築地塀などが完成した。唐門、焼香殿(祭文殿)、宝蔵(祭器蔵)、龍の門、築地塀および獅子の門と、源敬公墓(参道、殉死者墓9基、石柵4所を含む)は、国の重要文化財に指定されている。[6]

中野 (1977 108)によると、義直の墓に石垣をめぐらせたうちの1枚をはずすと、数百万両の軍用金が埋蔵してあるという伝説がある。

崇徳廟[編集]

崇徳廟は、定光寺の隣接地にある、尾張徳川家の歴代の納骨堂。半地下構造で、広さは約20坪あり、内陣と外陣に分かれている。内陣には歴代当主とその夫人、外陣には夭逝した子供と絶家した分家、歴代当主の側室の遺骨が納められている。[2]

「崇徳廟」の掲額は1991年の元旦に同家の第22代当主・徳川義崇が「崇」、同21代・義宣が「徳」、同20代・義知が「廟」字を揮毫したもの[7]。1976年に歿した同19代・義親、1992年に歿した義知の遺骨も同所に納骨された[8][7]

什宝[編集]

本尊は延命地蔵願王菩薩(地蔵菩薩)。

尾張藩の第3代藩主・綱誠が寄進した太刀(銘・助重、備前国吉岡一文字派)と、第9代藩主・宗睦が寄進した太刀(銘・守家、備前国畠山派)は、国の指定有形文化財となっている[9]

祠堂帳(1巻)は、瀬戸市の指定歴史資料となっている[10]

所在地[編集]

  • 愛知県瀬戸市定光寺町373[6]
  • 源敬公廟は同町373の1[6]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 尾張名所図会 第3巻 応夢山定光寺』1844年(天保15年)
  • 太田正弘(編)『定光寺誌』定光寺、1985年、JPNO 85048095

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 徳川 (2006) 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
  • 中野 (1977) 中野雅夫 [ 革命は芸術なり‐徳川義親の生涯 ] 学芸書林 1977 JPNO 78013751

外部リンク[編集]