時津風部屋

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時津風部屋ときつかぜべや)とは大相撲相撲部屋の一つである。霜鳳、時津海、時天空などの東京農業大学出身の幕内経験力士が多数を占めている。

概要

1942年、当時まだ現役の横綱双葉山定次により双葉山相撲道場として設立される。この際に元大関鏡岩善四郎の粂川親方が部屋をそっくり譲り他の部屋も多くが傘下に入った。双葉山の引退後年寄時津風の襲名とともに時津風部屋と改名し粂川部屋から譲り受けた鏡里喜代治が横綱に、現役時代からの弟子・大内山平吉大関になった。後に北葉山英俊豊山勝男といった大関も育てた。

1968年、双葉山の死後元鏡里の立田川親方が一時的に時津風を襲名するが後継者に豊山を指名していたとの遺言の存在が明らかになり、鏡里は立田川に戻り立田山(大内山)などの親方だけを連れ弟子を1人も連れずに独立し1971年立田川部屋を興した。

豊山勝男の継承後、関脇蔵間竜也小結豊山広光大潮憲司双津竜順一大豊昌央霜鳥典雄、平幕の時津洋宏典蒼樹山秀樹時津海正博などの幕内力士を輩出している。

豊山の時津風定年後は元小結の双津竜が部屋を継承している。弟子に「時(津)」や「豊」、「双」を含む四股名をつけることが多い。

先代の母校である東京農業大学相撲部は時津風部屋でも稽古を行うことがあるため、卒業後角界入りする者はほとんどと言って良い程、時津風部屋に入門している。実際に豊ノ島以外の現役3関取は東京農大の出身である。

現在でも右横書きで書かれた双葉山相撲道場の看板がかかげられている。

2007年、以下の序ノ口力士集団暴行致死事件を発生させ、時津風親方立件へと前代未聞の事態となっている。

時津風親方

時津風部屋創設後

現役の幕内経験力士

横綱・大関

横綱
大関

幕内

関脇
小結
平幕

所属年寄

  • 枝川 秀樹(えだがわ)元前頭筆頭・蒼樹山
  • 錦島 敏正(にしきじま)元前頭筆頭・蔵玉錦 鏡山より

旧時津風部屋

双葉山が襲名する以前の時津風は大坂相撲の名跡だった。東西合併のときには小九紋龍が親方で、部屋を経営していた。1935年で一度部屋を閉じ、粂川に弟子を譲渡。この時の弟子に十両の九紋龍政五郎、谷ノ音谷五郎がいた。1938年にふたたび部屋をおこしたが1941年限りで部屋を閉じ、立浪部屋に弟子を譲った。このなかに後の関脇・時津山仁一がいた。

その他の弟子

序ノ口力士集団暴行致死事件

2007年6月26日、同年春に入門した序ノ口力士の時太山俊が稽古中に倒れ、28日に死亡した[1]

稽古中に倒れ死亡したとされた序ノ口力士時太山に付いた通常あり得ない傷や、「死亡した力士にはマリファナの使用歴があった」等死亡した力士に責任転嫁する時津風親方の発言などから死亡した力士の両親が死因を不審に思い、愛知県警察(巡業先管轄)に行政解剖を求め、警察が実施したことから発覚。

時太山がけいこの厳しさに脱走をしたことに憤慨し、6月25日に時津風親方がビール瓶で頭を殴りさらに数人の力士に「かわいがってやれ」と暴行を指示、翌26日も通常は5分程度のぶつかり稽古を30分に渡り強い、倒れた後も蹴りを入れたり金属バットで殴打するなど集団暴行した。警察の任意取調べに対し時津風親方や数人の兄弟子力士が容疑を認めたため[2]、愛知県警は死因特定の遺体の組織検査や体のところどころにある根性焼きと思われるヤケドの跡など暴行と死亡との因果関係の結果を待ち、傷害および傷害致死容疑で立件する方針を固めた[3]。また遺族に無断で遺体を火葬しようとしたことも発覚しており暴行の事実を隠蔽しようとした疑いがもたれている[4]

なお、この暴行の際十両以上の力士は不在だったとされている[5]

脚注

外部リンク