谷口雅春

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谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年11月22日 - 1985年6月17日)は、日本の宗教活動家、宗教団体・生長の家の創始者。本名・谷口 正治(たにぐち まさはる)。神戸出身。早大文学部英文科を中退し、紡績工場で働きながら夜学に通った後、1917年に大本に入信。浅野和三郎の下で機関誌『神霊界』の編集に携わった。1921年の第1次大本事件と翌年の「最後の日」の後、大本を離れて東京へ移住し、1923年に著書『聖道へ』などを刊行、1925・1926年にアメリカの宗教思想家F・ホルムスEnglish版の著書を翻訳・刊行、浅野の心霊科学研究会の雑誌編集に参加するなどした。1930年にバキューム・オイル社English版に翻訳係として就職してから経済的に自立し、同年、雑誌『生長の家』を創刊。1932年に『生命の実相』を刊行して誌友(信者)を増やし、1934年に光明思想普及会を設立、東京に進出した。日中戦争から太平洋戦争の間、積極的に戦争に協力して職域や大陸に進出。戦後、公職追放を受けたが、1952年の講和条約発効後、教団の急速な右傾化を進め、戦前への制度回帰を提唱して再び教勢を拡大。1964年に政治団体・生長の家政治連合を設立して保守政党への影響力を拡大した。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1893年(明治26)11月22日、神戸六甲裏山兵庫区烏原町東所)の農家に、谷口音吉・つまの次男として生れる。本名は正治といった。[1][2]

4歳のとき、神戸で町工場を経営する叔母の家の養子となった[2]大阪市立市岡中学校を卒業[1][2]文学哲学に熱中し、早稲田大学文学部英文科へ進学[1][2]

谷口は元々クリスチャンだった[3]

夏休みに実家に帰省していたときに知り合った16歳の貧しい沖仲仕の娘と恋愛し、東京の下宿で同棲生活を始めた。養家がこれに怒り、仕送りを停止。生活に窮したため、娘と別れ、大学を中退。大阪の紡績会社に、1日10時間労働・日給50銭の技術見習い生として勤務した。[2]

大本入信[編集]

仕事をしながら、夜は商工学校の夜学に通い、翻訳の内職をして収入を得た。この間に、複雑な恋愛関係から病気にかかり、病気を治す目的で心霊療法に詳しくなった。[2]

1915年(大正4)、第1次世界大戦の好況下、明石の工場に女子労働者の監督役として転勤になった。当時、紡績資本は女工に過酷な労働を強いて、好況下で利益を上げ、高度成長を続けていた。谷口は仕事に矛盾を感じて工場を辞めた。[2]

  • 柏書房 (2011 102)は、私的な問題から工場長と言い争いになり、辞職した、としている。

生活の見通しは立たなかったが、催眠術や心霊術を学び、時間をかけて国訳大蔵経を読んだ[2]

  • 村上 (1978 408)によると、仏説の中から「三界は心の所現であり、心の外に存在はない」との教えを得て宗教に開眼した、という。

この頃、雑誌『彗星』で皇道大本の存在を知り、1917年(大正6)、京都府綾部の大本教本部を訪問して入信[4]。まもなく綾部に移住し、文才を認められて、浅野和三郎のもとで機関誌『神霊界』の編集や、聖典とされる『大本神諭』の編纂に携わった[5][6]。また自身も大本の「霊学」に関する論文を執筆し、体系化につとめた[6]

谷口は、それまでの人生に対する罪業の意識を深めたといい、粗服に縄帯をした格好で、水行断食などの苦行を行い、菜食主義を実践して、自身をアッシジの聖者フランシスコになぞらえた[5][6]

1920年(大正9)、初めての著書『皇道霊学講話』(谷口 1920 )を出版[6]。同年、大本の本部奉仕者だった江守輝子と恋愛結婚した[5]

東京移住[編集]

1921年(大正10)2月に第1次大本事件が発生し、教団幹部は一斉に検挙されたが、谷口は検挙を免れた[5][6]

同年8月頃から、京都の鹿ヶ谷で活動していた一灯園西田天香を訪問するようになった[3][5][6]

また事件の一審判決の後、控訴審に際して、大阪控訴院からの指示で、大本の教祖・出口なおの「御筆先」とそれを出口王仁三郎が漢字混じりに書き直したものを対比して、不敬に該当する箇所がないか調べる作業を行い、その際に、教団が「御筆先」のうち、的中したものだけを翌年の機関誌に掲載していたこと、またその中に出口家が天皇家に代わって地上の統治者にする意図が感じられるものが含まれていることに気が付いた[7]

翌1922年の3月3日または5月5日は、大本では出口なおの「御筆先」により「世の立替え」が起こる「最後の日」とされていたが、何事もなく過ぎた[3][5]

同年10月、谷口は妻を連れて大本を離れ、実家のある神戸に戻った[8]

  • 大本を離れた理由としては、第1次大本事件とその後の作業で神諭の作為に気付いたことや「最後の日」に何も起こらなかったことによる不信感、信仰の揺らぎが指摘されている[7][5][3]
  • また村上 (1978 409)は、別の本部奉仕者だった加藤明子との恋愛が破局となったことも一因としている。

その後、著述業で生計を立てることにして、上京し、浅草の職人宅に間借りした[8][9]

1923年(大正12)に2冊目の著書となる『聖道へ』と題した宗教・人生論(谷口 1923b )を刊行[5]

  • 村上 (1978 409)は、同書は、観念中心の世界観に基づいて、大本や一灯園、キリスト教社会主義などを鋭く批判した、としている。
  • 柏書房 (2011 104)は、序文を西田が識しており、「奉仕生活の根本問題」の章で西田、「百姓愛道場と新しき村」の章では江渡狄嶺武者小路実篤のような、同時代の人道主義的な活動とその思想について検討する内容だった、としている。

また谷口と同じように大本を離れて東京へ移住していた浅野の心霊科学研究会で雑誌の編集に参加した[5]

1923年(大正12)の関東大震災で被災し、富山県高岡市の妻・輝子の実家に避難[10][5]。同所で娘・恵美子が誕生した[10]。その後、兵庫の谷口の養父母の家に移住した[10]

  • 島田 (2017 120)および柏書房 (2011 105)には、1923年8月末に本が出来上がっていた長編小説『神を審判(さば)く』は、書店に配布される日に震災で焼け、他に出版社に預けていた長編小説2編を含む原稿が焼失したとあるが、国立国会図書館の書誌情報によると、1923年に第1部(谷口 1923a )が刊行されている。

その後、兵庫の谷口の養父母の家に移住した[10]。勤め先が無いまま、心霊科学研究会の手伝いを続けていたが、生活は困窮し、養父母の理解も得られなかったという[10]

  • 村上 (1978 409)は、生活が更に困窮したことから、谷口は浅野と別れて新宗教を創始する構想を固めた、としている。

生長の家[編集]

1925年・1926年に、アメリカの宗教思想家F・ホルムスEnglish版の著書を翻訳・刊行。

1926年に、ホルムスの折衷的な宗教論とフロイトの精神分析の影響を受け、仏教・神道・キリスト教の教義をはじめとする各派の観念論的哲学を取り入れて、教義の体系化を進め、1929年暮に、教義を確立した、という[5]

1926年6月-1928年10月にかけて、倉田百三の雑誌『生活者』に寄稿[3]

  • 大宅 (1937 58-59)は、谷口の作風は一昔前の武者小路実篤・倉田百三と同じ系統、と評している。

(1930年(昭和5)に?)神戸・三ノ宮にあった外国商社バキューム・オイル社English版に月給170円の翻訳係として就職[11][10][5]。職場では、機械書類の翻訳をしていた[3]。経済的に自立し、阪神沿線の住吉村に居宅を持った[11][10]

1928年、宗教について話し合う「求道者の会」を立ち上げ、雑誌の刊行を考え始めた[12]

1926年12月と1929年3月から1931年11月にかけて、心霊科学研究会の雑誌『心霊と人生』に投稿。

1930年3月、個人雑誌『生長の家』を創刊[5][13]。合掌・正座して行う「神想観」という祈り方を考案[14]。「求道者の会」の賛同者たちに『生長の家』を無料で配った[15]

1932年(昭和7)から、雑誌のバックナンバーを合冊し、『生命の実相 - 生長の家聖典』として刊行。ベストセラーとなった。[16][17]

  • 柏書房 (2011 106)はこの頃から、雑誌『生長の家』は谷口自身の解釈によって「病気治し」と結びつけられ、現世での利益が強調されるようになって、谷口自身も哲学的な求道者から宗教団体の教祖に変貌していった、としている。

教勢拡大[編集]

1934年(昭和9)9月、東京に進出し、信者の出資により(株)光明思想普及会を設立[18][16]。『生命の実相』をはじめ、『生長の家』『白鳩』『光の泉』『いのち』等の各種雑誌を刊行した[16]。「生長の家」の信者は1935年には3万人を突破し、教団は出版事業によって営利会社並みの利益をあげるようになった[16]

  • 「雑誌を読んだだけで病気が治った」などと喧伝された[19]
    • 大宅 (1937 50-51)は、実際には「『声明の実相』は病気を「放す」のであって「治す」のではない」などとされていて、そうはっきりとは言っていないが、言おうとするところを率直に述べれば、『生命の実相』を読みさえすれば、病気が治り、危険が避けられ、就職は絶対確実で、貧乏が逃げていくということであり、かつてない誇大広告が新聞に掲載された、と評している。

谷口は各地の誌友(信者)の間を廻って「誌友会」や講演会を開催[19]。行動哲学として、マルクス唯物史観に対抗し、「唯心史観」を強調した[19]

  • 大宅 (1937 53)は、生長の家の根本思想は、唯心論というほど哲学的なものでもなく、昔からよくいう「病は気から」という考え方を普遍化・神秘化し、宗教めいたものに仕立てて、それを逆に商品化したものだ、と評している。
  • また大宅は、谷口が「教祖」を名乗らないことについて、謙虚でインテリ的、としつつ、生長の家は「宗教」ではない、としていたことについて、宗教というと取締りが厳しくなり、他宗教の信者を誘引することが難しくなるため、それを避けていた、と評している[20]

谷口の活動に対して、当局は取り締まりをせず、内務省の役人が谷口の講演会の前座を務めるなど、むしろ奨励しているようだった[18]

  • 大宅 (1937 61)は、その理由は「思想善導」、特に左翼青年の転換に606号梅毒の特効薬)的効果を発揮するためで、「唯心論」はマルキシズムの俗悪な反対物だった、と評している。
  • 大宅 (1937 62-63)は、「生長の家」の問題を、非科学的・ナンセンスな治療方法が一流新聞紙上で堂々と広告されていたことに求めつつ、「営利本位のブルジョア医業」がそれに対立し得ていなかったこと、また支配階層が「珍説邪教」まで援用して自分自身を防護していることを社会の病理として指摘している。

この頃、原宿駅付近に「見真道場」を建設しようとしていた[18]

戦争協力[編集]

日中戦争から太平洋戦争の間、生長の家は「天皇絶対」「聖戦完遂」を提唱して、会社・工場の労働者教育に進出。谷口は、「日本の国体こそ実相の世界の顕現」「軍の進むところ宇宙の経綸が廻る」など説いて、戦争に積極的に協力し、中国大陸に進出して満州光明思想普及会を設立した。[16]

公職追放[編集]

1945年の敗戦後、谷口は戦時中の好戦的な主張について弁解を余儀なくされ、「いまの日本の戦いは天皇のご意思ではない」「アメリカ兵をできるだけたくさん殺すほうがよいというような戦争は神の意思・天皇の意思ではなく、そのような戦争をする日本軍は皇軍ではない」など、軍部が暴走して天皇の意に沿わない戦争を展開したのであり、自分が支持した皇軍は負けていない、との主張を展開したが、1948年にGHQは、戦時中の超国家的な言論活動を戦争協力とみなし、谷口を公職追放の対象に指定[21][22]。教団の布教活動は停滞することになった[23]。「生長の家」は教義を改変し、1946年に日本教文社を設立して出版活動を再開[16]。1951年には立正佼成会など他の新宗教団体と新宗連を結成した[24]

戦前回帰[編集]

1951年に公職追放解除となり、翌1952年5月に新しく施行された宗教法人法に基づく「宗教法人生長の家」の総裁に就任した[25]

靖国神社国家護持を巡っては、立正佼成会などと立場を異にしたことから、谷口の意向により、1957年に「生長の家」は新宗連を脱退した[24]

政界進出[編集]

1964年に政治団体・生長の家政治連合を設立し、保守政党への影響力を拡大した[27]

死去[編集]

1970年代に教団が長崎県西海市に土地を購入したことに伴い、同地へ転居[28]。のちに敷地内に谷口家の墓所が建設された[29]

1985年6月17日に91歳で死去[30]。最期を看取った谷口雅宣によると、死の間際に「病い無し、迷い無し、罪無し、これが生長の家の根本真理であります」と語ったという[31]

著作物[編集]

  • 谷口 (1920) 谷口正治『皇道霊学講話』新光社、NDLJP 963305 (閉)
  • ― (1923a) 谷口雅春『聖杯 三部作 第1部(神を審判く)』新光社、NDLJP 979257 (閉)
  • ― (1923b) ――『聖道へ』新光社、NDLJP 969330 (閉)
  • 1925 ――『神の牙城に迫る』小西書店、NDLJP 913340 (閉)
  • 1925 F・L・ホルムス(著)――(訳)『如何にせば運命を支配し得るか』実業之日本社、NDLJP 983380 (閉)
  • 1926 ――『信仰革命』三土社、NDLJP 983491 (閉)
  • 1926 ホルムス(著)――(訳)『神と偕に生くる道 - クリスチヤンサイエンスの信仰及び哲学』警醒社書店、NDLJP 1018835 (閉)
  • 1926 クリスチヤン・ディー・ラーソン(著)――(訳)『錬心健康術』三土社、NDLJP 1021696 (閉)
  • ― (1932) 1932 ――『生命の実相 - 生長の家聖典』生長の家出版部、NDLJP 1032541 (閉)

家族[編集]

  • 妻は大本の本部奉仕者だった江守輝子[5]
    • 長女・恵美子は教団の第2代総裁となった谷口清超(旧姓・荒地)と結婚[29]
      • 孫の寿美とその夫・宮沢潔は「生長の家オーストラリア法人」を独立させて、その日本本部として宗教法人・ときみつる会を設立[32]
      • 孫の谷口雅宣は教団の第3代総裁となった[32]
      • 孫の谷口貴康は教団幹部だったが、のちに退団した[32]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 大宅壮一「『生長の家』とは?」『大宅壮一全集 第4巻』蒼洋社、1981年、JPNO 81027181[1]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 島田 2017 119
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 村上 1978 408
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 大宅 1937 58-59
  4. 村上 1978 408-409
  5. 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 5.12 5.13 村上 1978 409
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 柏書房 2011 103
  7. 7.0 7.1 柏書房 2011 103-104
  8. 8.0 8.1 柏書房 2011 104
  9. 村上 1978 409は、大本を離れて上京した、としている。
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 柏書房 2011 105
  11. 11.0 11.1 島田 2017 120
  12. 柏書房 2011 99,105
  13. 柏書房 2011 105-106
  14. 島田 2017 121
  15. 柏書房 2011 99
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 村上 1978 410
  17. 島田 2017 122は、(1934年に)光明思想普及会を設立してから『生命の実相』を刊行した、としている。
  18. 18.0 18.1 18.2 大宅 1937 60-61
  19. 19.0 19.1 19.2 島田 2017 122
  20. 大宅 1937 53
  21. 柏書房 2011 108-109
  22. 島田 2017 239-240
  23. 23.0 23.1 柏書房 2011 109
  24. 24.0 24.1 島田 2015 185-188
  25. 柏書房 2011 109-110
  26. 島田 2017 240
  27. 27.0 27.1 村上 1978 411
  28. 柏書房 2011 110-111
  29. 29.0 29.1 柏書房 2011 111
  30. 柏書房 2011 c-30
  31. 柏書房 2011 106
  32. 32.0 32.1 32.2 柏書房 2011 112

参考文献[編集]

  • 大宅 (1937) 大宅壮一「『生長の家』を解剖する」『宗教を罵る』信正社、1937年、pp.48-63 NDLJP 1229216 (閉)
  • 村上 (1978) 村上重良『日本宗教事典』講談社、JPNO 79002209
  • 柏書房 (2011) 島田裕巳(監修)柏書房(編)『現代にっぽん新宗教百科』柏書房、ISBN 978-4760139729
  • 島田 (2015) 島田裕巳『戦後日本の宗教史』〈筑摩選書〉筑摩書房、ISBN 978-4480016232
  • 島田 (2017) 島田裕巳『日本の新宗教』〈角川選書〉KADOKAWA、ISBN 978-4041052525