雄琴温泉

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雄琴温泉(おごとおんせん)は、滋賀県大津市(旧国近江国)の琵琶湖西岸にある温泉最澄によって開かれたと伝えられる。県最大の温泉地かつ一大ソープ街であり、2000年以降、地元観光協会などでは平仮名表記の「おごと温泉」を標榜している(後述)。

雄琴も基本的なソープ価格帯は吉原などと同じだが、日本3大ソープ店の1つ「9999(フォーナイン倶楽部)」は総額10万円である。

雄琴風俗の歴史

昭和41年3月、新宿区在住の自動車販売業の男が、「東京都千代田区永田町2-1」という住所のところにトルコ風呂の建設申請を出した。トルコ風呂というのは、現在の「ソープ」のことであり、この住所の場所は、ズバリ、首相官邸の真裏。つまり、首相官邸の真裏にエロい店を作ってしまい、国会議員の方々にも利用してもらおうと考えた人物が新宿あたりに住んでいた。

昭和41年6月14日、建設申請に法的な不備はなく建設が許可されると、これを知った佐藤栄作首相は大激怒し、すぐさま6月27日に風営法を改正する法案を成立させ、7月1日に施行させた。

この法案が可決したことにより、首相官邸の真裏にトルコ風呂を建設する計画はなくなり、トルコ風呂は官庁や病院、学校などの敷地から200m以内での営業ができなくなり、同時に、各都道府県の条例で営業禁止区域が制定された。

この永田町トルコ風呂騒動の一部始終をジッと見守っていた人物がいた。

田守世四郎

のちに、この「雄琴温泉」を日本屈指のソープ街へと変貌させた人物。かつては石川県・山中温泉でトルコ風呂を経営していた、いわば「エロの巨匠」。エロ店の営業禁止区域が次々と制定されていく中、裏を返せば、それ以外の場所なら営業してもいい。そう考えた彼は、日本全国を巡り、新規開拓できそうな場所を探していた。

その頃、当時の雄琴温泉は温泉こそあるものの、琵琶湖の湖畔であること以外に取り立てて名物になるようなものはなく、いつ潰れてもおかしくないぐらい非常に寂れた温泉街だった。

が、京阪と北陸を結ぶ国道161号線に面している地の利を見抜いた田守世四郎は、ここにトルコ風呂を開業することを決意する。昭和46年2月6日、この日の大津地方は時々小雪のちらつく底冷えする日で、最高気温は4.9℃。最低気温は、-0.5℃まで下がったような日だった。

開店は午後3時。この日のために、「本格的トルコ、雄琴に出現」と書かれた横断幕をつけた宣伝カーを3台も雇って、京都、大阪、神戸、姫路まで10日走らせたエロ巨匠。大々的に宣伝したが、これが功を奏したのか狙いはズバリ的中。田んぼの真ん中にオープンした「花影」というトルコ風呂は、京都や大阪のナンバーをつけた車で行列ができ、深夜遅くまでその車列が途切れることはなかった。

当時トルコ風呂を開業するのに必要な資本金は、1億5000万円だったと言われているが、10か月も営業すれば、すっかり元が取れたというから、どれだけ儲かったのかは計算するまでもない。

儲かることがわかると、雨後の筍のごとくトルコ風呂が次々とオープンし、瞬く間に、「ソープ街」ができた。こうして、全盛期には50軒近い店が軒を連ね、京都に程近い「雄琴」に、日本屈指のエロ店街が誕生した。

そう、雄琴温泉はトルコ風呂ができなければ、ただの寂れた温泉街として終わっていた。ところが、時代は変わった。最近は、町の健全化を目指す人たちが、この「ソープ街」を廃止させようと活発に活動を続け、ソープ街の人たちは今肩身の狭い思いをさせられている。

風俗店というと、怖い人がカラんでいるイメージがあるが、雄琴温泉のソープ店はそのほとんどが個人商店で、細々と経営している。

雄琴の伝説店フォーナイン

雄琴にはフォーナインという店がある。「雄琴には」ではなく、「ソープランド界には」と言った方が良いかもしれない。熊本のブルーシャトーと並んで、風呂好きの人間のあいだでは必ず話題に上る店。ここで入浴しなければ上級ソーパーになったとは言えない、みたいな店。

そのハードルを醸成している理由は、

  • 会員にならないといけないということ。
  • ドレスコードがあるということ。
  • 価格が高いということ。

もちろんサービスが素晴らしいとか女が美しいとかいう理由もあるだろうが、そういったものは客人の好みがあるので、風俗店におけるハードルを構成する要素とは言い難い。

価格が高いといっても総額で10万程度だ。吉原と金津園にも10万の店があるので、日本一高いという訳ではない。それに何時だったか、福原のクリマジのグループが18万のコースを設定したことがあったので、価格的にはそれがソープ史上最高じゃないかと思う。

外観はボロい店が多い雄琴において、フォーナインは、お城みたいな美しい建物で営業している。お城みたいというか、イメージ的にはモンサンミッシェルみたいな湖に浮かぶ白亜の城という表現がぴったりくる。だってバックは琵琶湖なんだから。城に続く道があって、黒い門が入り口にある。門は自動で開閉するようになっており、車で乗り付けると開けてくれるのだ。

予約から

数日前に、HPの電話番号へ予約。まず、30歳以上でないと入店さえできない。HPでは顏が見れないがハズレは皆無らしい。「ドレスコード」は、上はエリ付のジャケット、下はジーパンNG!。このへんが最低ラインだそう。

当日は15:20の予約ですが、遅くても30分前には来い!とのこと。そんな偉そうじゃないけど笑。入会の登録やらなんやらがあるらしい。ギリギリでいくのもアレなんで、50分前くらいに到着。

ボーイさんはソファーに優雅にくつろいだ私に地べたにひざをつけての応対です。さすが高級店ですね。まー私も腰を低くしつつ対処しましたが。30歳以上限定だけあって、落ち着いた優雅で時間にシビアに稼働してきたとはまた別次元の空間。

癒されますともええ。やっぱ、モノホンには触れてみやんといかんですな。逆に、こういったところに癒しを求めて殿方は足を運ぶのですなと、感じましたな。

ロビーのトイレも小便器3個、大便器2個ありますが、使用するのは一人のみですよ!急でなら使用できるんでしょうが、そんなにせかせかと用を足さんでもいいんじゃね?って感じの空間。

はち合わせる様なストレスにも敏感にボーイが察知し、対処する。ホントによくできた方々だなと、ここにもまた若干感動…

まー要するに、こういった一つ一つにまでストレスをかんじさせない空間作りなんですよね。公衆便所や大衆食堂でガヤガヤした感じの所で 飲んだり食ったり、買い物したり、用足したり、プーソー行ったりそんな小さなストレスと感じない様なちっさなストレスにさえ感じませんよ。これが高級店。これがくつろぐってことなんだな。

そりゃそんな中で至福の時間過ごせるんだから、それなりの値段払っても行くわけですよね。サービスともども納得の時間、空間を過ごさせてもらいました。この良さを肌身で感じとって納得できるにはやはり30以上なってないと無理ですということですね。

30歳を迎えた際には、是非行ってみて下さい。30を超えれば日常とモノホンとの区別が付くことでしょう。

総額78,000円

温泉街

1929年昭和4年)創業の老舗湯元館をはじめとして旅館ホテルが10軒ほどが国道161号線を挟んで点在する。比良山地の山麓沿いに建てられているため、琵琶湖など眺望に優れる。周辺には比叡山延暦寺とその門前町坂本日吉大社堅田浮御堂園城寺(三井寺)、紫式部で有名な石山寺など歴史ゆかりの文化財が多く、観光拠点として適している。名物料理として料理や近江牛料理などがあり、特に鴨鍋は冬の琵琶湖を代表する味覚である。

その一方で歓楽温泉としても発展した背景があり、昭和30年代以降に温泉街の南側、苗鹿3丁目の一角に風俗街(特殊浴場群。いわゆるソープランド街)はが相次いで進出した(この特殊浴場に雄琴温泉の源泉は引かれておらず、温泉としての関連性は皆無である)。これらは、温泉街とは明確に隔離されている。

最寄り駅の雄琴駅は地元の働きかけにより2008年3月15日、「おごと温泉駅」に改称された。

2011年2月1日、観光施設として大津市立おごと温泉観光公園がオープンした。

歴史

今から約1200年前に最澄が開いた湯といわれるが、次のようなエピソードもある。昔はこの近くに八つの頭を持つ大蛇が棲んでいたといわれ、その大蛇の棲む谷には北国海道を少し西に入ったあたりの法光寺境内の北端、字蛇ヶ谷に念仏池という池があった。この池は病気に効くというので、村人は念仏を唱えながら賽銭を投げ入れていたという。この池が雄琴温泉の由来だという。雄琴という地名は、平安時代の貴族今雄宿禰の荘園があり、その邸からよく琴の音が聞こえたことから、姓の「雄」と「琴」をとって雄琴と呼ばれるようになった。

雄琴の南の苗鹿1丁目にある法光寺天台宗)は最澄開祖と伝わる古刹で、先述の念仏池と呼ばれる池があり、現在は法光寺に移されているが最澄が刻んだとされる坂本六地蔵のひとつである苗鹿地蔵が祀られていた。 伝聞によるとこの水を飲むと、難病はたちどころに癒え、念仏池の泥を塗ると皮膚病、汗疹やにも特効のある霊水だったとされる。1918年(大正8年)頃に、この霊水に着目した地元の田中宗吉により成分が分析され、ラジューム鉱泉であることが判明。温泉として浴場と茶店を兼ね備えた建物ができる。1923年(大正12年)4月、江若鉄道が雄琴駅まで開通し利便性が高まると、温泉開発が本格的に始まる。大正12年1月の雄琴村議会では、温泉開発の問題が議案になる。温泉のある土地の地上権を村が借り受け、その土地を開発業者に賃借するという議案で、村長は「温泉場設置計画ニ付大津市奥村房吉ヨリ交渉ノ次第之有、本村発展上有望ノ事業ニ付各員ニモ屡々協議ヲ煩ハシ今日茲ニ提出シタルモノナリ」と説明している。 それまでに目だった産業もない農村だった雄琴村にとっては、鉄道の開通と温泉の開発という2本柱は、新たな可能性を秘めた魅力的な事業だった。

第二次世界大戦後、交通アクセスの良さから関西の奥座敷として発展した。前半から、国鉄(当時)湖西線の開通もあって団体旅行客が増加し、特に1970年には大阪万博の特需に湧き、開催地から近隣の雄琴温泉は連日、満員御礼の盛況となった。

その後、1971年(昭和46年)、雄琴初のトルコ風呂(当時の名称。現在の「ソープランド」)「花影」を皮切りに、大規模な風俗街も作られていった(同業態は1971年3月に京都府で禁止されたことから、生き残りをかけて隣接県の当地に多数流入したと見られる。この風俗店の流入によって雄琴のイメージは著しく悪化し、風俗街のレッテルを貼られた雄琴は家族連れや女性個人客などから敬遠された。

1980年代から1990年代の旅行書、温泉ガイドブックには雄琴の名はろくに記載されず、1990年代に発行された、旅行読売出版社による全国の温泉地を網羅した全国温泉大事典にも”戦後、歓楽温泉として発展”と書かれるのみでほとんど温泉地の中身を採り上げないなど、専門家からも温泉地としての評価を大いに下げていた。

バブル景気崩壊後は主な得意客だった職場団体客が激減し、近隣旅館の廃業が目立ち始めた。そのため、生き残りを図るために旅館組合の8名が『雄琴青経塾』を立ち上げ、これまでの体制や慣習を抜本的に見直し、1990年代後半から各温泉旅館が一致団結で改装に乗りだした。

各々の旅館がこぞって全室露天風呂付きの客室の新館や別館を併設したり、趣向を凝らした露天風呂などをしつらえたりしている。それと並行して、接客、サービス改善に努めたり、創作料理を提供してみたりと、ハード面・ソフト面双方の改善を旅館同士で切磋琢磨した。時代に似つかわしくないと旅館名の変更も相次いでおり、「雄琴国際ホテルきくのや」は「暖灯館きくのや」に、「國華荘」は「びわ湖花街道」に、「ロイヤルホテル雄山荘」は「里湯昔話雄山荘」に、「芳月楼」は「びわこ緑水亭」に改称している。

一方、「湯元館」、「琵琶湖グランドホテル」は個人客需要をにらみ別館を新たに併設するなどしている。こうした旅館組合ぐるみによる旅館同士の競争が相乗効果を生み、着実にリピーターや新規顧客を増加させ安定した成長を続け、日帰り施設なども作られ、年間50万人弱が利用する一大温泉地となった。また、こうした運動が認められ、京都方面への修学旅行客受け入れ先としても機能を果たすようになるなど社会信用、信頼も大きく回復を遂げている。

交通

周辺観光

関連項目

外部リンク

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